2014年12月13日土曜日

今、必死に生きているか?

昨日の授業時、
スモーキーマウンテンの話をしたら高校生が涙を流して聞いてくれた。
勉強したい、
という欲求を明日死ぬかもしれない子どもたちが必死で考えている。
僕らはどうか。

恵まれている環境に感謝して、
必死に生きていこう。
心からそこに向けて歩いて行こう。
倒れるとしたら、
志の方向を向いて。
いつもありがとうございます。
学生は静かに聴け、教師は必殺技を持て
昨日、facebookを見ていたら、ある大学で英語の授業が崩壊して、教授がキレてへんなプリントを配った、という話が出ていた。真偽のほどを直接確認したわけではないが、その話や、反応を見ていて、感じたことを書く。
「Fランク」というラベルが、その大学を揶揄するように書かれていたが、日本の教育観、学力観の貧困を象徴していると思う。揶揄する方の頭も貧困である。人間の能力は、ペーパーテストの点数や、偏差値などでは測れない。「Fランク」の大学の学生にも、もの凄い個性やポテンシャルがあるはず。
授業が崩壊しているとき、学生が悪いことはもちろん。教室に出てきているのに、私語をしたり、スマホをいじっているのは時間がもったいないし、教師に対しても人間として失礼だ。一方、実際に見てみないと断定はできないが、教授の授業のやり方にも問題があるのではないかと思う。
英語力と、その人の知性は必ずしも一致しない。たとえ、教室にいるのが英語力の足りない学生たちだったとしても、彼らが積み上げてきた18年、19年という人生の中で、必ずいろいろな経験をして、問題意識を持っているはずだ。そこに訴えかける授業をしなければならない。
ぼくが、もしその大学の教師だったら、どんな学生が来ても、授業を楽しんでもらい、知的好奇心を刺激し、目を輝かせることができなかったら、自分の「負け」だと考えると思う。そのためにこそ、プロの教師というものは、あの手この手の必殺技を開発し、成長していくものではないだろうか。
ひょっとしたら崩壊している授業に出ている学生が読んでいるかもしれないから、直接訴えるけど、そんな風に時間を過ごすのは、もったいないよ。人生のその時間は、二度と戻ってこない。もし、教師の話がつまらなかったら、静かに聴きながら、内職すればいい。内田百閒の随筆など、オススメです。

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